【ぼ】 語り簿

記憶を頼りに語られた、生っぽく、熱を帯びた物語の記録。

第二回 かたりべ四街道
「四街道と私、自分の物語を語りませう」

第二回目の語り部(べ)は参加者の皆さん。テーマを「四街道と私、自分の物語を語りませう」にし、参加した皆さんのそれぞれの物語を語り合いながら会を進めていこうというもの。共同部長である大野泰祐から話をはじめ、ふらふらと話は蛇行運転を繰り返しながら会は進んだ。

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幼稚園で学んだひとつのこと。一生懸命やっている人を決して馬鹿にしてはいけない。

幼稚園の記憶といってもそれほどないのですが、母から聞いたエピソードを話したいと思います。僕が通っていた幼稚園は大日の先にある幼稚園でして、母が制服が可愛いという理由で入れたそうです。その幼稚園の年長のときだったと思うのですが、園のイベントで毎月、誕生日を迎える園児が、みんなの前で簡単な発表をするというイベントを行なっていました。そのイベントでの発表というのは、自分の好きな食べ物や、なりたい職業などを発表するという、とても簡単なことでした。僕の誕生月である5月にも会が開かれて、友達が元気に発表する中、僕はなぜかモジモジしてしまって、なかなか発表することが出来きませんでした。次第に待ちきれ無くなった園児や、様子をおかしく思った園児がクスクスと笑い出してしまったんです。すると園長先生が「これから一生懸命話そうとしている人を笑ってはいけません!」とその園児たちを一喝しました。空気はしらーっとしてしまったのですが、僕はその後、発表を始めたそうです。この話を聞いて僕が学び今でも大切にしているのは、一生懸命やっている人を決して馬鹿にしてはいけないということです。母が制服が可愛いという理由で選んだこの幼稚園ですが、この幼稚園でよかったなと思いますし、卒園から20年以上経った今でもこの先生とはお付き合いをさせていただいています。(大野泰祐)

大野さんの用意したメモ

大野泰祐の幼稚園の時の様子。とてもシャイな幼稚園児だった。

四街道という街は中間的で面白い。都会へ来た夫と、とんだところへ来てしまった私。

幼稚園という話がありましたが私は働いていたので自分の子どもは保育園に入れました。私自身は東京の下町で商人の娘として生まれ、幼稚園に通っていましたが、その頃は幼稚園や保育園に通っていない子どもが沢山いたと思います。夫は私と同い年で、出身は印旛郡の本埜村(*1参照)ですが、本埜村にはそもそも幼稚園もなければ保育園もありませんでした。当時はそういう村がいくつもあって世間の人と一緒になって育てるということもしていたようです。話はそれますが、本埜村での生活は当時は電気が通っていなくて、夜はランプを灯し、お風呂は薪を炊いて沸かすという生活でした。そうした二人が結婚して住んだのが四街道で、田舎から来た夫からしてみれば、四街道は大都会。私は江戸川を渡ってとんだところへ来てしまったと思いました。30年暮らしてみて、街の規模でいうと、昔も今もとても中間的で面白い街だと思っています。子育てや教育のことでいうと「いじめ」の問題が出てきた時でしたが、みなさんの頃はどうでしたか?(Yさん)

何時の時代もいじめっ子はいたが、昔は加減を知っていたと思う。僕たちの世代は相撲でそれを教わった。

今から50年くらい前、俺も子どもの頃にいじめられたよ。とにかく一番強い奴は一人しかないないんだから、みんないじめられていた。で、我々の時代は、いじめる方も上手に(加減をして)いじめていた。決して大事には至らないような、そういういじめの仕方だった。それといじめられている方も、大きくなったら見てろよというような気持ちをみんな持っていた。今のいじめに関するニュースを聞いたりしていると、今と昔とでいじめ方の違いは感じている。(Aさん)

私たちの時代っていうのは学校の休み時間になると相撲をよくとっていた。その時に「おめぇ、びたつけったっぺ!(お前そんなに強く投げつけなるなよ!)」とか言い合ったりしているうちに、このあたりまでは大丈夫だなというのがわかってくる。相撲をとりながら腰をひねったりするだけで、相手の技量ってものがわかった。そういうことは、男としてとても幸せに感じることだった。そういう関わり方を通して、ケンカの仕方(加減)なんかを学んでいたのではないかと思う。(S1さん)

当時の様子を振り返りながら遊び方について熱弁。

相撲は肌と肌をぶつけ合う個人戦。団体戦では「馬乗り」があった。

僕らの子どものころは体に直接痛みを感じるような遊びが多かった。「馬乗り(長馬跳び)」とかね。今の馬跳びとは全然違うもので、馬チーム(守り)と乗るチーム(攻め)のチームに分かれるんだよね。で、馬チームは一人が壁や木の前に立って、その股に別の人が頭を入れてまた後ろの人が前の人の股に頭を入れてという形で馬を繋げていく。そうして出来たのものに、乗るチームの子どもが飛び乗っていって、全員が馬に乗ったら、壁に立つ人とジャンケンをして勝負を決める。全員乗る前に馬が崩れてしまったら馬チームの負けといったようなルールなのだけど、馬チームの上に人がどんどん登ってくるもんだから、体が結構痛いんだよね。こういう遊びが僕たちの時代にはあったけど、いつの日か見なくなってしまった。もしかすると学校なんかで禁止になってしまったのかもしれない。だけど、こういう原始的な遊びというのはとてもいいと思う。相撲は肌と肌をぶつけ合う個人戦だけれど、「馬乗り」は肌と肌をぶつける団体戦。仲間と協力して守ったり、作戦を練って相手に攻めたりすることを子どもの頃に体験することはとても大事なことだと思う。(S2さん)

馬乗りを初体験、諸先輩方にやり方を仰ぐ。馬を繋げていって長馬を作る。その上に、跳び箱の容量で飛び乗っていく。

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次第に特定の人の物語ということではなく、共通点のある話にいろんな人が参加する形でそれぞれの物語が交差していった。

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鉛筆の持ち方、箸の正しい持ち方って誰が教えてくれるのかな。

今の子ども達は鉛筆や箸を正しく持てない子が多いように思う。その親御さんたちも正しく持てない方が増えている。もしかすると、学校の先生でも正しく持つことができない人がいるかも知れない。洋食文化が入ってきてフォークやスプーンなどを使う機会が増えたということが原因にあるかもしれないが、フランス人のフランソワーズ・モレシャン(*2参照)は、日本には箸の文化という素晴らしいものがあるのにどうしてこの箸を使えないのかと嘆いていた。(Aさん)

これって学校で教えることではないと思う。洋食文化が入ってきたということも要因として有りそうだけれど、子どもの頃に僕は両親に習いました。僕たちが育った頃は共働きの家庭も多くなって、学校では教えてくれない生活のことを親から教わる機会が減ってしまったのではないかと思う。共働きの家庭が増えていることと、共働きによって減ってしまったしつけの機会について、どのように折衷案を出していくかっていうことが大切なのかもしれない。(S3さん)

急遽、正しい箸の持ち方とその教え方についてレクチャー。参加の全員が正しく箸を持てるようになった。

斜めの関係ともいえる人たちと関わりながら子どもは育っていった。

私は斜めの関係と言っているんですが、親の話は聞かない、担任の話は聞いているようで聞いてない。でも、おじさんの話は聞く、隣のクラスの先生の話は聞く。思い返してもらえるとわかるかもしれないけれど、同じ話を聞いても親から言われるとカチン!とくるのだけど、おじさんから諭されると、そんなもんかなあとなる。どうしても近しい関係ほど、反発してしまうことがある。そういう時に意図的に、おじさん、おばさん、地域の人といった斜めの関係の人と触れ合いを図ることがいいんじゃないかな。その触れ合いを通してポロッと出た会話の中で子どもは育つと思う。中には口うるさいおじさんもいたりするけどね。(S2さん)

でもいいと思います。そういった知恵袋が必要なんじゃないかとおもいます。僕の周りにもいろんな大人がいましたけど、好かれようとして寄ってくる大人よりも、厳しく接してくる人っていうのは、時が経った今でもそのひとの顔やその時の言葉が残るんですよね。(大野泰祐)

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二回目を終えて

第二回目のテーマを「四街道と私、自分の物語を語りませう」という所謂フリートークの形式に決めたのは、前回を振り返りながら、参加者の四街道に対する想いがとても印象に残ったからである。この試みを企画した当初は、語り部(べ)をお招きして、物語を語って頂くと決めていたので、特定の語り部(べ)をお招きせずに、この方法を取ることに少し不安もあった。結果としてテーマに一貫性がなくなってしまい反省する点も多い。しかし、録音した音声を聞きながら当日の様子を振り返ると、「わたなべ(*3参照)知ってる?」「あー知ってる知ってる!」といったような参加者それぞれが持っている物語と物語が交差する瞬間の盛り上がりは、フリートークならではの醍醐味だったように思う。また、50年前に小学校で行われていた「馬跳び」という遊びのくだりで、世代に関係なく身体を使ったコミュニケーションがこの会のなかで取れたことは大きな収穫であり、また、失いかけているコミュニケーションのかたちであるとハッとさせられた。そして会の中で出てきた「斜めの関係」や「世間」というキーワードは、子育て中の僕の頭の中で反芻し続けている。

共同部長 両見英世

プロフィール

参加者全員

交流の意味を含めて参加者全員の物語を語って頂いた。

注釈

*1 本埜村

本埜村(もとのむら)は、千葉県印旛郡にあった村。都心から50km圏にもかかわらず、水と緑に恵まれた豊かな土地が広がり、毎年冬には越冬のために800羽を越す白鳥が飛来する。2010年3月23日、印西市に編入合併した。(ウィキペディア

*2 フランソワーズ・モレシャン

フランソワーズ・モレシャンはフランスのライフスタイルアドバイザー。和食にも親しんでおり、「日本食の中で最も好きな物は焼き鳥。一番のごちそうは焼き鳥のタレをごはんにかけて食べること。ちょっとお行儀悪いけどね。」と語っている。(ウィキペディア

*3 わたなべ

四街道市の和良比にあった駄菓子屋。かつて駄菓子屋は小学生の社交場的な場所であった。僅かな小銭を握りしめて買ったお菓子の味は、今でも忘れることがない。