【ぼ】 語り簿

記憶を頼りに語られた、生っぽく、熱を帯びた物語の記録。

第三回 かたりべ四街道
「千葉弁を語る」

当初予定していた7月20日に台風が通過するという予報を受けて、急遽延期を決定し8月3日の開催となった。会をはじめに嬉しいニュースをご報告した。一つ目は四街道市の市制三十周年記念事業に採択されたこと、二つ目はこの試みが千葉日報に掲載されたこと。どれも参加していただいた方やご協力頂いている方のご縁による。

さて、第三回目のかたりべ四街道は、漫画家のさとう有作さんをお招きして「千葉弁を語る」というテーマでお話して頂いただいた。千葉弁といえば「だっぺ」や「だべ」くらいしか馴染みがなかったが、前回のかたりべ四街道に参加して頂いた際に、さとうさんが話す表情豊かな千葉弁を聞いて、もっと話を聞いてみたいと思ったからである。

今回の語り簿(ぼ)には当日の様子を撮影した動画をも掲載しているので、千葉弁のイントネーションや豊かな表現も合わせてご覧頂けたらと思う。

* * *

こんばんは。この間は台風で中止になったんですけど、千葉に台風が来る前に沖縄に行って挨拶をしてまいりましたら、台風がこちらに来てしまったもんですから……。

沖縄にいてびっくりしたのは、沖縄の方は台風でゴーゴー鳴っているなかで、民謡を掛けながらガンガン飲むんですね。それでどうして飲むの?と聞いてみたんです。そうしたら島津藩の圧政の頃に台風が来ると明日はなにもしなくていうことで、みんなでどんちゃん騒ぎをしてたらしいんですよ。ビュービュー風が吹いてる中で一生懸命みんなで遊んでいるんですね。

それで次の朝、台風一過でそのへんに枝が沢山折れてるんですが、しばらくするとトラックがやってくるんです。トラックの到着に合わせ、みんなが表に出てきて、枝をトラックにのせていく。で終わるとトラックはブーンと去っていき、コカコーラをパパパッと渡してみんなで飲む。飲み終わったらお疲れさんといって帰っていくんですが、台風に慣れているんですね。それと近所付き合いですね、そういうものがあちらにはありますね。こちらにもあるんですけれども、大分そういったものが薄れてきまして。

夕暮れの思い出は僕らの時と本当に違いますね。

僕の生まれは久留里でして、育ちは千葉のセンシティの下の新町でした。新宿小学校と新宿中学校という地元の学校に通いました。当時は今の子供達と違って周りには何もなくて、登戸にトヨタがあったんですが、そのネオンがどこからも見えるような時代でした。千葉駅も今のところではなくて市民会館のあるところが千葉駅でした。万葉軒(*1参照)の立ち食い蕎麦が15円くらいでしたね。それで汽車がポッポポッポと来ていました。なかなかいいもんでしたね。

空を見上げると一番星が出たとか二番星がでたとか、それぞれを見つけて、夕焼け小焼けを本当に歌いながら家に帰るという感じでしたね。

今はそういうのが本当にない。今は夕暮れというよりは煌々と灯るネオンが子どもたちの思い出になるんでしょうね。それは今と昔とで大きく違いますね。

目ではなく音から入ってきた時代。

子供たちに漫画を教えているんですが、雨が振っている時にどうやって擬音を書く?(手を出して上をみながら)これはどういう音?と聞いてもあまり反応がない。それで仕方ないからポツンとかザーとかあるでしょ?といって初めてうんと頷く。よく考えてみると僕らの頃の家はトタン屋根だったりしましたから雨音をよく聞いていた。今なんかでも二階なんかで寝ているとわかるかもしれませんが、マンションなんかで暮らしていると下の方に住んでいる方なんかはあれ?雨降っていたの?なんてこともある。だから、ある人に佐藤さんね、今度は傘の音はどうなんて聞いてみたらどう?パラパラとか。なんてアドバイスを受けたこともありました。

そういうわけで僕らの頃はなんでも耳から入ってきたように思いますね。今はビジュアルというか目から入ってきますね。ものを買うにしても、食べるにしてもね。昔はチャルメラの音とか、朝でいえば納豆屋とか、夕方になれば豆腐屋とかね。

さとうさんのイラストレーションに入るオノマトペ。子どもの頃の暮らしから培われた。竹村日出夫著「その日本語はこう訳す!(祥伝社) 」より

万年筆の泣き売と寅さんの啖呵売。私の子どもの頃にあった本当の話。

それとものを売るにしても例えば泣き売といいましてね。千葉駅のところを歩いていると、うずくまっている人がいるんですね。その人は何もいわないんだけど、その人に声をかけている人が大きな声で知らしめるんですね。

「どうしたの?え?なに?ん?一昨日、工場が火事になっちまったのかい?え?社長がなに?その焼け残ったやつを売って来いっていうのかい?え?これかい?開けてみてもいい?あ、これ万年筆だ。どこそこの万年筆だな。あぁ、これは焦げちゃってるな。こっちは大丈夫だ。え?これ一本いくらなの?え?300円?お、いいねえ。じゃあ三本もらおうか?三本な。」

なんていっていると、こっちの方から二本もらおうかなんていってこのあたりからお客さんになるんでしょうね。じゃあ一本ちょうだいよ。じゃあ俺も一本。なんていうの二回見ましたね。何をやってんだろうと思いましたね子供心に。そうやってものを売っていた。

お話に熱が入るさとうさん。身振り手振りで当時のものの売り方を語る。

寅さんなんかの場合は啖呵売といってきちんと一から始まってくんですね。

「ものの始まりが一ならば、国の始まりは大和の国。島の始まりが淡路島。泥棒の始まりが石川の五右衛門。助平の始まりが小平の義夫。」

とこうなる。で次が二になる。

「仁吉が通る東海道。憎まれ小僧、世にはばかる。それから今度は続いての数が三だ。三で死んだか三島のおせん。おせんばかりがおなごじゃないよと来たもんだ。ねえ、おばちゃん聞いてるかい?」

とこうやってるんだ。

「かの有名な小野小町、三日三晩飲まず食わずで野たれ死んだのが三十三だ。続いての数は四。四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら流れる御茶ノ水。粋なねえちゃん立小便。」

とかいって売っていく。そういうふうにしてバナナなんかを売っていましたね。

千葉弁を話す田舎の人は、いかにもな話しぶり。

田舎の人ってのはね、蛇なんかの話をするんですよね。蛇なんてそこら辺にいて普段見てるんですが、まるで凄いものを見たような口調でいうんですよ。

「おい、おめぇ見たかい?」

「見たよぉ。おめぇ。」

「こないだ、あそこの山奥あっぺよぉ。あそこでうち、あっとこ入ろうと思ったらよぉ。そこにおめぇなげぇのが、こんなもんのがいたんだよぉ。くっちゃみ(アオダイショウ)がよヌッタヌッタヌッタヌッタしてんだよぉ。」

「おやぁ、そうかい。それでどうしたんだい?」

「ん?そのうちスーっといなくなっちまっただよ。」

「そうかい。」

「あせったよぉおめぇ。それからあそこのりんどんま(井戸場)にもいたよ。蛇はおめぇ、ああいう水がすきだねぇ。こないだ見た。ヤマカガシだ。あれもおめぇ毒があんだってよ。」

「おっぺせー!」といったら手を離してしまった東京もん。

「おめえあれだ、ちっとこっち来なよ。」

「どしたんだい?」

「今よぉ、東京もんがおめぇ、車できてよぉ、ドブに落としちゃったんだよ。」

「ドブに落っことしちゃった?」

「そりゃおめぇ、ねぇねぇねぇ。みんなでよぉ、ふっちゃげて(持ち上げて)やっぺよぉ。」

「みんなみんな、こっちこっち。新宅(分家)のお姉さんこっち、本家のあんちゃんはこっち来なよ。おめぇなにしてっだよぉ。あぁ?まんま食ってる?早く来なよおめぇよぉ。卵かけて食うんだよオメェよぉ。け、け、(食え、食え、)はよぉよぉ。早く食っておめぇよぉ。」

なんていってみんな集めて。

「いいかいおめぇこっち持ってよぉ。おめぇはこっち持って。」

「おがこっち持つ。」

「おがこっち持つからおめぇこっちもつだぁよ。うってぇだよ(重たいよ)おめぇ。うってぇだよ。みんなふっちゃげんだよぉ。いいかい?いちにのさん!」

と持ち上げて「おっぺせー!(押せー!)」といったら東京の人が手を離しちゃったっていうね。

おっぺすといいますね。押すことを。これが九十九里の方に行きますと、港がありませんから漁に出る時には砂浜から沖に向かって船を女性が押していたのですが、その人のことをおっぺしといいましたね。

おっぺせーで手を離してしまったという瞬間、笑いに包まれた。

自分は「おが」、お祭りは「まち」、まだまだある千葉のお国言葉。

自分のことは「おが」といいますね。いうは「そう」といいましたね。「そういう」ということが「そう」になったとおもうんですけど。「ばったもんにゃ」なんていうのは、どうしようもないってことですね。それから水なんかも冷たい場合は「つて」。ちょっと暖かいときには「今日はぬきぃねぇ。今日は大分ぬきぃや。今日は過ごしやすいやねぇ。」なんていいました。それからお祭りは「まち」といいました。

「今日はおめぇあそこだよ。愛宕神社でまちがあっだよ。みんなで行くべよ。いろんなものがでっだからよ。おめぇいくっぺ?にしもいくべ?にしらもいくべ?んじゃいくべいくべ。」

それから千葉の言葉で面白いのは、あんとんねという言葉ですかね。

「おめぇ、血が出てっよ。ここからよ。」

「ああんが、おめぇ、あんとんねぇよ。」

「あんとんねいかい。」

「お、今おめぇ車が足ひいてったよ!」

「ああんが、あんとんねぇよ。」

「あんとんねぇかいおめぇよぉ?足、ぶっかいちゃっだでが?大丈夫かい?」

「大丈夫だよ。あんとんねぇだよ。」

あんとんねぇっていいますね。これはおもしろいですね。大体その前に「ああんがが」といいますね。だから皆さんも聞かれたら「ああんが、あんとんねぇ」といえば、なんともないということになります。医者なんかにいって最初にいうと「何しに来たんだ?」といわれてしまいますけれども。

農業はゆっくり、漁業は早口。

九十九里の方にになると少し口調が荒くなって早口になりますね。久留里やなんかですと農業が盛んで

「あんちゃ~おめぇ、なにしてんだい。こっちきなさ~」

なんてゆっくりなんですが、九十九里なんかでは「あんちゃ~」なんていっている間に魚が逃げてしまうので

「あんちゃ、おめぇ早く来なよこっち。早く来なよ。早く来なよ、おめぇはよ。土佐衛門が上がったよ。土左衛門がよ。ねぇ、みてみなよぉ。男の土左衛門は下向いてっけど、女の土左衛門は上向いてだっよ。ほら。カニがびっちりついてるよ。カニがんめんめんめんめ、んめんめんめんめ、むちゅむちゅむちゅむちゅ、んめんめんめんめ。カニは面白いねぇ。んめんめってやると、(手をカニのハサミに見立てて、手を振りながら)んめんめってやるね。なんだかしんないけど、こうやるね。あれ、おめぇよ、ふっちゃがしてよ、国道行って売っだよ。こないだも100円でいっぱい売れたよ」

っていってそういうものを剥がして国道に行って売っていたそうです。

ゆっくりしゃべるだけで標準語になっていると思っている人が沢山いるんです。

田舎の人っていうのは標準語でしゃべろうとするんだけど、違いがすぐにわかりますね。市役所から電話がかかってくると、「も〜しも〜し、さとうさんでぇすかぁい。今度は実は頼みたいことがあるんでぇすよぉ」とゆっくり話すんですね。本人は標準語で話していると思ってるみたいですね。田舎ではゆっくりしゃべるだけで標準語になっていると思っている人が沢山いるんです。

とまあ、そんなわけで千葉弁を語るということでしたが如何でしたでしょうか。なにか質問はありますでしょうか?

持ち上げるはふっちゃげる。重たいはうってぇ。「うってよぉ。おめぇ」なんていって。それから面白いのは……。

* * *

さとうさんのお話しは尽きず、そのまま流れで交流会に突入。参加者を交えての千葉弁講座が続いた。

千葉弁の余韻に浸りながらの交流会。この回は若い方にも多く越し頂いた。

* * *

三回目を終えて

さとう有作さんの話が始まったとたん話にぐんぐん引き込まれた。中でも興味深かったのは、千葉弁を話す人がいかにもな話しぶりをするというくだり。

オーバーリアクションは外国人ならではと思っていたが、かつての日本人は皆、身振り手振りを交えながら抑揚の効いた話しぶりをしていたのだろう。

幼い頃から地縁による密度の濃い人と人との関係性を保ちながら暮らすことで徐々に培われていたのかもしれない。

近所付き合いが希薄になり、コンピュータや携帯電話の普及もあいまって、直接会わずに電話やメールで済ませてしまうことが生活の中で増えていっている。

今、千葉弁を改めて捉え直すということは、これまで日本人が持っていた起伏に富んだコミュニケーションを取り戻し、これからにつなげていくことができるのかもしれない。

共同部長 両見英世

* * *

さとうさんが語った千葉弁

【あんとんね】なんともない
【うってぇ】重たい
【おが】私が
【おっぺす】押す
【くっちゃみ】アオダイショウ
【け】食うの命令形、食え
【そう】いう
【つて】冷たい
【ぬきい】暖かい、温かい
【ふっちゃげる】持ち上げる
【まち】祭り
【りんどんま】井戸場

プロフィール

さとう有作(62)

昭和24年千葉県君津市生まれ。20歳の時に「来れ!70年安保」でデビュー(週刊漫画タイムズ)。その後、はらたいらに師事。はらたいらの一人しかいない一番弟子となる。

注釈

*1 万葉軒

万葉軒は、千葉駅の駅弁業者から発展した、千葉市付近を拠点とする弁当・仕出し業者。創業は1928年(昭和3年)で、合資会社として設立。創業後に鉄道駅内での構内立売営業の許可を得て、駅弁の製造販売をはじめた。(ウィキペディア

*2 ヤマカガシ

ヤマカガシは、爬虫綱有鱗目ナミヘビ科ヤマカガシ属に分類されるヘビ。全長は70―150cm、頭胴長は55―120cm。体色は地域により非常に変異に富むが、主に褐色の地に赤色と黒色、黄色の斑紋が交互に並んでいる。(ウィキペディア